2014年12月05日

須賀と私 3

2005年、レオマにいる宮君から電話がかかってきた。

至急会って相談したい事があるとの事で、2日後に息子が
オリーブ球場で試合があったため、途中でレオマに寄ったが
あいにく須賀は居なかった。宮君に会うと、県人誌に掲載した
須賀のエッセイを本にしたい、のだが著作権はどうなるのか?
との事だった。

勿論著作権は、こちらにあるが、須賀の事だから放棄する旨を伝えた。
出版費用を聞かれたが、即答はしなかった。
結局、本は出版されず、2012年の2月出版する事になる。
今思うと、この時出版されていれば、希帆に会う事もなく、
ANGEL達との遠征も無かっただろう。

2009年友人の岡本光生から突然電話がかかって来た。
「ミュージカルオペラ龍馬」の撮影依頼だったが、
以前市民ミュージカル「魔笛」で嫌な思いをしているので断った。
間もなく、今度は須賀から電話がかかって来た。

2002年以来、およそ7年ぶりの須賀の声は、以前と少しも変わらなかった。
「私が責任を持つから、撮影して欲しい」
翌日、スタジオで再開するなり挨拶する間もなくハグされた(笑)!

結局、松浦氏と約束した、須賀への協力はこれだけだった。

この、前代未聞の規模で公演された「ミュージカルオペラ龍馬」は
総経費1億2千万で、およそ4千万の赤字を出す結果となり、

須賀が、1千万近く、私も60万の赤字を被る事になった。

撮影料の30万は須賀が払ってくれた。

2010年2月、須賀から電話が掛かって来た。
「大丈夫?私が赤字分出し代えようか?」
「いや、岡本の事だから覚悟はしてましたから(笑)!、気にしないで下さい」
「困ったら何時でも言ってね」

それが、須賀との最後の会話になった。

私の人生は須賀との関わりが半分を占める、現在も尚、
彼女の生徒達との繋がりが、そのまま息子との繋がりになっている。

協力どころか、世話になりっぱなしの関係だったと言える。

彼女の死によって、希帆に出会い、IZANAIに出会った。
「恩返し」常に私の心に在った言葉。

そんな、気持ちで「よろこびの始まり」を編集し、
IZANAIの記録を「いきざまつり」で撮影した。

そして、、、、、。

posted by satowa2 at 00:26| Comment(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。