2014年01月07日

道標(しるべ)無き旅ーーー私の魂を導いてくれたものーーー4

賀一、名前
私の名前、ヨシカズと読みます。未だ嘗て正確に読んだ人は
3人しかいない(笑)
小学校でも中学校でも、新たな学期が始まって、先生が
クボウチ、ーーーなんて読むの?と問いかけ続けた。
中学3年の時、クボウチヨシカズ、とはっきり呼ばれた!!






あまりの出来事に一瞬返事が出来なかった。
学校の教師なんて、馬鹿にしていた父が初めて授業参観に来た。

それまで、父はおろか、母でさえ授業参観に来た事は無かった。
自分の担任する生徒の名前すら読めない教師は、会うに足らない、
と言うのが、父の口癖だった。母は、父に止められていた。
読めなければ、前任者に聞けば済む事、それすらしない先生は
教師の資格は無い、私もそう思っていた。

武内良秋先生、国語の先生だった。三園町に自宅があり、息子が
同級生と言う事もあり、よく遊びに出かけた。
後に、写真の道を選んだ時、進学を勧める父を説得してくれたのも
この先生だった。

二人目は、24、5歳の時に出会った、デザイナーをしていた女性で
友達に「賀子」ヨシコという子が居たらしい。

そして3人目が田村千賀先生。これは当たり前か(笑)

最もよく言われたのが、ケンイチだが、、字を良く見ろよ!!
と思って、ニヤつくだけだった。

「賀」は喜び、「一」は始め、創めるだ、國友須賀(よろこびのはじまり)
は、これに基づいている。

父は、この名前に特別の意味を持たせたと言う。
何千人と言う名付けをした中で
最も、気に入った名前だと言われた事がある、
そして将来この「賀」と言う文字を持つ名前の人が、
お前を助けてくれるとも。

だから、賀一という名前に自尊心を持っていた、友達や、
家内の父までもが「ガイチ君」と言うのを心地よく感じながら、
生きてきた。
気安く「ヨシカズ」と呼ばれない事が自慢だった。

新聞に「小島須賀」と言う名前があった。妙に気になったが、
何も起こらなかった。
2年後、仕事で立脇バレエを撮る事になった。バレエなんて、
それまでは全く別世界の事、初めて千賀子と言う名前を知った。

出来たばかりの文化映像はこの立脇千賀子先生の指導で、
舞台の核となる撮影方法を学ぶ事になる。
この先生に出会わなければ、現在の文化映像は存在しない。
先生からは、撮影技術だけでなく、物事の組み立て方を
学ばせてもらった。今は息子がお世話になっている。

そして、営業をしていた伊藤と共に、
本町のSUGA STUDIO で國友須賀に出会うのである。
4年後須賀の演出する、市民ミュージカル龍馬で
乙女役の田村千賀に出会う。
彼女もまた、私の人生に大きく影響を与え、
リトルプレイヤーを通じて、私どころか息子にも
大きな助力を与え続けてくれている。

「賀」父の言っていた通り、この名前につけられた文字は
私の人生の殆どを意味していた。勿論この字を持たない、
多くの人達が私の人生に関わっているが、この3人ほどの助力
(金銭的にもそうだが、それ以上に指針や希望)を与えてくれた
人は、僅かである。

「窪内賀一」私はこの名前が大好きである。
 
もう一つのエピソードがある。
「須賀、よろこびのはじまり」の原稿が集まって来た時、
吉本智賀子と言う名前があった。

彼女もまた、私の名前を見てどんな人物か気になって
いたそうである。
本の出版記念会で、炭丸で顔を会わせた。
二人とも噴出してしまった。
何と、20年以上も顔を会わせ続けていた二人だった。

文化協会事務局の吉本さんであり、文化映像の窪内さんだった(笑)
お互い名前を気にしたのが、「須賀、よろこびのはじまり」だった。
文化協会の会報には名前も掲載されているが、お互い無関心で、
須賀先生の逝った今、私を加えて、との願っても無い話。

早速、彼女は私に奉仕(笑)してくれた。
昨年のカルポートの三大元素撮影は、彼女の計らいで実現した、



posted by satowa2 at 03:10| Comment(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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